清水寺と木造十一面観世音菩薩坐像    

清水寺と木造十一面観世音菩薩坐像  

 
 加治田にある「白華山清水寺」は京都の音羽山清水寺と同じく、坂上田村麻呂の開基、円鎮大師の開山と伝わり、本尊の木造十一面観世音菩薩坐像は、国指定重要文化財となっており、県指定文化財の二天門や地蔵菩薩立像をはじめ多数の文化財を有しています。元来は、真言宗でしたが、江戸中期頃に臨済宗妙心寺派の末寺となりました。山門のすぐ前を流れる硯川の畔は「清水谷公園」として美しく整備され、春の新緑や秋の紅葉には多くの方々が訪れます。

『木造十一面観世音菩薩坐像』国指定重要文化財
木造十一面観世音菩薩坐像
▲ 木造十一面観世音菩薩坐像
※原則、一般公開はされておりません。
毎年「成人の日」の午前中にご開帳されます。



 十一面観世音菩薩は、結跏趺座(けっかふざ)の坐像で、大正14年に国宝として指定され、現在は国の重要文化財となっています。桧材の寄木造で、彫眼、胴は細くしまり、厚い膝は安定感を示しています。衣文は柔らかく流麗で温雅な容貌をしています。この仏像は、はじめ木地の上に黒漆を塗り、その上に赤漆を塗り、それに金箔をおいたもので、眩しい黄金色に光り輝いていたものと思われます。それが、長い年月の間に剥落し、今では金箔は膝頭の下などに僅かにしのばれるだけで赤色さえも落ち、香煙のため全体が黒ずんで神秘的な感じを与えます。光背は雲焔の浮彫で、江戸期の作。11面のうち前3面は慈悲の菩薩面、左の3面は怒りの怒面、右の3面は菩薩面に白牙上出面、後の暴悪大笑の面、頂上に阿弥陀の化仏があります。

清水寺の二天門
▲ 清水寺の二天門



 仏法の帰依者を護るという四天王のうち、持国天、増長天の二天を安置してあることから二天門と名付けられました。桁行3間、梁間2間の入母屋造りで、正面と背面に軒唐破風をつけ、その上に入母屋造りの上層を乗せた望楼風の型体をしています。桁行3間の中央が通路で左右奥の間に「持国天」「増長天」を安置し、上層には、かつて鐘が吊り下げられていたのか、吊り金具の穴と壁金が観察されています。建立年代は明らかではありませんが、梁の絵様、木鼻の形などから江戸中期以前と考えられています。

清水寺に安置されている持国天 清水寺に安置されている増長天
▲ 清水寺に安置されている持国天 ▲ 清水寺に安置されている増長天

 

 
『木造地蔵菩薩立像』岐阜県指定重要文化財
『木造地蔵菩薩立像』岐阜県指定重要文化財 
▲ 木造地蔵菩薩立像  


 『木造地蔵菩薩立像』は、別名「日切地蔵」とも呼ばれていて、昔から日を切ってお願いすると、その日までに願いが叶うとされています。
 この地蔵菩薩は、桧材の寄木造玉眼で像高73cm、右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を捧げた延命地蔵の立像で、温和静寂、自愛あふれる姿です。法衣は蓮華の単独模様や、麻の葉の渦巻き、蓮の葉の上下方連続模様など極めて精巧な截金(きりがね)技法〔金箔などをきって貼付〕が前面・側面・後部にわたって施されています。この技法は鎌倉から室町にかけて仏像の彩色に盛んに行われたものです。光背は円光、台座は蓮華座で岩座にのっている。作者は不詳、年代は室町初期と推定されています。台座の裏側には、次の墨跡がありました。
 「享保二十年 乙印 三月吉日 再興
 京大仏士 駒井柳朝
 仏□□公 寛文十三年□□十八日

 墨跡から寛文13年(1673年)に仏□□公によって作られたものが、その後の享保20年(1735年)に駒井柳朝なる仏士(師)によって修理されたものと推察することができます。


『清水寺縁起』

 平成元年の春、庫裡の整理をしたところ、やや破損した軸が出てきました。それには、加治田の清水寺の縁起が書かれていました。それによると、承和5年(838年)に、延鎮という僧が大和の国、小嶋寺(現・奈良県高市郡高取町)にいましたが、生身の観世音を拝せんと悲願をたてました。宝亀9年(778年)夏に、観世音が夢枕に立ち、「山城の国へ行き、汝の志願を遂げよ。」と告げます。そこで延鎮は出発し、淀川をさかのぼり、その水源の音羽の滝へ着いたところで、老翁に会いました。老翁は「私は行叡居士というものであるが、観音経を読んで既に200年になる。ここは霊地であるから、汝は私に代ってここに寺を造って観世音を奉れ。私は東方に縁があるから行くが、逢いたくば尋ねれまいれ。」と言って飛び去ってしまいました。感激した延鎮は「これは観音様がお姿をお見せになったに違いない」と喜んで小さな草庵を結んで朝晩観音経を念じていました。そのうち延暦17年(798年)坂上村田村麻呂が鹿を猟して、この山で延鎮に会った。そこで延鎮はものの命の尊さを話し、観音様の話をして聞かせた。田村麻呂は延鎮の話に非常に感銘を受け延鎮大師に帰依し、奈良にある自分の屋敷を移し、其処に観音様をまつったと言われ、これが京都の音羽山清水寺の始まりです。
 延鎮はしばらく観音様をまつっていたが、あの行叡居士こそが自分が願っていた本当の観音様であると思い、東の方へ行くと言われたから自分も東の方へと旅立ちました。東の方へと、どんどん来て美濃の国へ入ると加治田白華山に一条の光が見えています。延鎮が此の山に入ると、そこに行叡居士がおられ再会する事ができました。延鎮は非常に喜び、再び坂上田村麻呂にお願いし、この清水寺を造っていただいた。
 時に大同3年(808年)でした。


[所在地]
加茂郡富加町加治田895-1



お問い合わせ
・ 富加町郷土資料館 TEL 0574-54-1443
・ 富加町教育委員会 文化財係 TEL 0574-54-2177


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