郷土の偉人「木村小舟」     

郷土の偉人「木村小舟」   


― 幼少~少年時代― 

本名を木村定次郎といい、明治14年9月12日に加治田村に生まれます。幼少の頃は、昆虫好きで虫取りや自然観察など、野外を駆け回る活発な子供でした。13歳頃から教師になることを夢見ますが、その頃の小舟は病弱だったため、当時としては比較的裕福な家庭に生まれましたが、満足な教育を受けられませんでした。代わりに小舟は、様々な本を東京から取り寄せてもらい、熱心に購読し、書籍や文学への愛着が培われます。その中で特に彼の気を引いたのが『幼年雑誌』『小国民』『少年世界』などの、東京博文館が出版する色鮮やかな児童向け雑誌でした。こうした幼少期の体験は、その後の著作に大きく影響しています。
その後、小舟は自らの生きる道を模索するように、明治29年(1896年)からの約2年間は母校加治田尋常小学校の代用教員として勤務、明治31年(1898年)からの約2年間は名和靖に憧れて名和昆虫研究所の助手として働きますが、いずれも一生を賭けるものとは思う事ができなかたようです。思春期の彼の心には「文学」への強い憧れと情熱が日に日に大きくなっていきます。
木村小舟
木村小舟



― 文学への憧れ、巌谷小波との出会い ―

 明治の日本は西洋文化が急速に流入し、大きく変貌を遂げますが、出版界では新たに児童文学というジャンルが誕生しました。日本において児童文学の幕を開けたのは、日本のアンデルセンとされる「巌谷小波」です。彼が明治24年(1891年)『少年文学』に掲載した「こがね丸」が、その先駆けと言われています。代用教員時代の木村小舟は、熱心な投稿少年でしたが、18歳の時に執筆した「胡蝶船旅行」が東京の出版社「博文館」の主筆だった巌谷小波の目に止まり、木村扶桑の名で『少年世界』に掲載されます。この時、原稿料5円を手にしたと回顧していますが、代用教員の月給が2円だったようですから、驚きと共に文学で生計を立てる夢の実現を意識することとなります。
小舟は、明治33年に(1900)「博文館」に入社し、少年雑誌の編集や執筆活動に精力的に活躍し、巌谷小波・田山花袋・大町桂月・武田桜桃らと共に、博文館の黄金期を支えました。博文館入社後に、「木村小舟」と名乗りはじめますが、このペンネームは、恩師巌谷小波と、巌谷の挿図を担当していた武内桂舟の両氏から一字づつ貰ったものでした。
自らを文学の道へ導いてくれた巌谷に対して、小舟は恩義を忘れることなく、公私に渡り巌谷を支えつづけました。


― 「岐阜通俗図書館」の建設 ―

子供の頃より書物を愛した小舟は少年時代に「聞けば東京には図書館といふものがあって、学校へ入れぬ者は其所へ通って勉強が出来るといふ」事を知り、郷里にも図書館ができることを夢見ていました。そして真剣に将来の図書館設立の為に書籍を購入し、貯めておくようになります。東京へ上京した後も、生活費を切り詰めて図書を購入し、郷里の兄の家の米倉が書籍でいっぱいになるほどに送り続けました。大正2年の夏、小舟は鵜飼見物のために帰郷し、かねてからの文学上の盟友でした岐阜教育新聞の小木曽旭晃(修二・周二)に図書館設立という夢の実現への協力を仰ぎます。当時、岐阜には学術書が中心で貸し出しの規定が厳しい県教育会付属の図書館(明治42年開館)しかありませんでした。社会教育の普及と実践を志す小木曽旭晃は、小舟の意志に賛同し、「教育新聞」で広く協力を訴えます。
反響は大きく、多くの賛同者や寄附金が集まり、岐阜市議会議員の賛同もあって市から創立費250円、維持費年額120円の支給が決まります。場所についても、当時市会議員の大洞弥兵衛が所有する岐阜市神田町1丁目の大和バザー(勧工場)2階の提供を受けることができ、10月には加治田村から荷車15台分の本を運び込み、10月27日に地元有力者が参列するなか開館式を開催し、11月1日についに「岐阜通俗図書館」が開館しました。
計画立案から2ヶ月程度という驚くべき早さで実現に至りましたが、このことは実務に当たった小木曽旭晃の手腕もさることながら、大衆向け図書館に対する周囲の期待と歓迎を物語っているように思われます。


― 類焼による焼失と加治田通俗図書館の開設 ―

岐阜通俗図書館は、大正8年6月隣家の油屋の出火によって、残念ながら建物はもちろん、小舟の蔵書もすべて全焼しました。小舟と小木曽は再建へ努力しますが、場所の確保等で折り合いが付かず、断念する事となりました。
しかし、昭和2年には、小舟が郷里の加治田へ帰郷した折りに、地元の有志や青年団に乞われて「加治田通俗図書館」の開設を約束し、以後、書籍を収集しては加治田へと送付し続けました。そしてこの図書を基にして、加治田小学校の一角に「加治田通俗図書館」が開設しました。


― 巌谷小波関連の編纂事業への情熱 ― 

小舟は師である巌谷小波を慕い、恩義を終生忘れませんでした。巌谷の晩年には『小波お伽全集』『還暦記念小波先生』など、師の業績の総まとめ的な編纂事業にエネルギーを傾けます。巌谷小波が亡くなって2年後には、息子の巌谷栄二とともに東洋伝説の集成『大語園』全10巻を刊行します。これは小舟が巌谷から託された大事業であり、巌谷の意志を見事に結実させています。


― 「少年文学史 明治篇」の出版 ―

 昭和17年には代表作となる『少年文学史 明治篇』上、下、別巻を出版します。本書は、明治の児童文学活動の経緯と変遷を、豊富な資料と鋭い観察眼で克明に記録しており、「日本の近代児童文学研究上の基礎文献として…この分野の最初の、しかも資料的に充実した名著として不朽の価値を持つ」(飯干陽『木村小舟と「少年世界」』平成4年)と評価されています。小舟は執筆の動機を本書の序文に「明治時代の少年文学が、いかにしてその道程を切り開き、且いかなる経路を巡り来つたか、更にそれが大正より現代へと、どういうふうに進歩変遷して来たか、即ち過去の事歴に對して一應の検討を試み、その認識を深める」ためと記しています。時節は太平洋戦争に突入し、小舟も郷里の加治田へ一時帰郷していましたが、その折りに本書は執筆されました。戦争による混乱や資料の散逸にたいする危惧や、自らが記しておかなくてはという自負もあったのでしょう。手元に資料もない中で、記憶を頼りに綴られた本書は、驚くべき詳細さと正確さで、鮮やかに花開いた近代児童文学の夜明けを描き出しています。
『少年文学史 明治篇』を出版し終えた翌年、昭和19年に脳溢血のため世田谷の自宅で倒れます。その後、療養と疎開のため郷里に近い鷹之巣(現美濃加茂市加茂野町)に移り住み、終戦を迎えます。終戦後は東京に戻り、多少の後遺症を残しながらも執筆を続けますが、昭和29年4月20日東京中野区の自宅にて亡くなります。

木村小舟自筆の原稿(明治31年18歳) 木村小舟自筆の原稿(明治42年29歳)
▲ 木村小舟自筆の原稿(明治31年18歳) ▲ 木村小舟自筆の原稿(明治42年29歳)



所在地
加茂郡富加町夕田212


お問い合わせ
・ 富加町郷土資料館 TEL 0574-54-1443
・ 富加町教育委員会 文化財係 TEL 0574-54-2177

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