龍福寺とその文化財     

龍福寺とその文化財   

 
 戦国時代、加治田にある古城山には山城があり、「佐藤紀伊守忠能」という城主がいました。永禄8年(1565年)織田信長の中濃侵攻では、中濃の要衝として関・加治田・堂洞の三城が反信長の盟約を結んでいました。結果的には、加治田方が信長につくことで、形勢は信長に有利に働き、信長の中濃攻略は成功します。佐藤紀伊守は、信長の中濃攻めに際し大きな役割を果たしましたが、中濃攻めが成功すると信長の命により加治田城主は斎藤新五に変わり、佐藤紀伊守は伊深に隠居して仏門に入ります。そして永禄10年(1567年)に佐藤家の菩提寺である龍福寺を加治田の町に建立しました。隠居後の佐藤紀伊守は「三省」と称し、もっぱら龍福寺のために尽くし、様々な配慮をしています。龍福寺には、佐藤紀伊守が寺の領地を定めた自筆の文書が残っており、これをみると寺領の範囲は「東は烏帽子岩、西は郷ヶ洞、南は門前龍沢屋敷共町うら、北は山の嶺通り」と今も残っている地名も境として出てきます。そして「もし異議を唱えるものがあれば申し出て下さい、厳しく注意します」と付け加えられており、この文書の裏にはその当時の加治田城主である斎藤新五の証判が押されており、将来に間違いがないようにという紀伊守の配慮がうかがえます。

『雲板』(岐阜県指定重要文化財)  『雲板』(岐阜県指定重要文化財) 

 雲板とは、禅寺において合図のため打ち鳴らす楽器です。この雲板には銘文があり、それによると大和国の蔵春庵のものだったようです。銘には嘉吉3年(1443年)と彫られています。いつ龍福寺に伝来したのか、由来は不詳です。
▲ 雲 板  


佐藤紀伊守の肖像画 『佐藤紀伊守肖像画』
(富加町指定重要文化財) 


 天正2年(1574年)に描かれた肖像画で、佐藤紀伊守が亡くなる3年前の姿です。肖像画には龍福寺の開祖蘭畹玄秀和尚の賛文が記されており、蘭畹和尚との交際の深さ、紀伊守の人柄を知る貴重な資料です。
▲ 佐藤紀伊守の肖像画  


佐藤紀伊守が記した龍福寺領の安堵状
佐藤紀伊守が記した龍福寺領の安堵状



― 讃文の現代訳 ― 蘭畹和尚が佐藤紀伊守を以下のように評しています。

 「武勇を好み、仁と智がある。一本の扇子を手にすれば夏に涼しく、冬に暖かい気がする。五条の袈裟をかけているところは、僧に似ているが、然し髪があるし、俗人には似ているが、一点の俗気を感じさせぬ。清白な士で、忠赤の臣。手に持っている晋の教典を常に手放さず、努力を怠らない。頭に被っている頭巾は陶淵明の好むところで、宴遊する時には酔って身を忘れる。晩年禅道に入って、力量はすさまじい。壮年軍勢を指揮して敵に対するときは、鶴翼魚鱗の陣で常に勝ちをおさめた。」


『池田恒興(信輝)遺品の馬具と槍』(富加町指定重要文化財)


 龍福寺開山天猷玄晃に帰依していた戦国武将池田恒興(信輝)は、織田信秀(信長の父)に使えていた常利を父とし、信長の乳母を母としていた。天正10年(1582年)織田信長が明智光秀の謀反により自害したのち、織田家の後継者争いに端を発して徳川家康軍と豊臣秀吉軍とに分かれた。西方の秀吉に属した美濃大垣の城主池田恒興、長男之助、次男輝政、娘婿の森長可は天正12年(1584年)長久手の激戦の末、森長可は鉄砲で眉間を撃たれ、池田恒興と之助も討たれ戦死した。次男の輝政のみ生き残り、のちに播磨五二万石大守として姫路城主となります。戦の直後に日比野美濃守が率いる加治田の軍勢が恒興父子と重臣の10遺体を引き取り、龍福寺に収め葬儀の後、大山の齢峰寺に埋葬したと言い伝えられています。齢峰寺には2体の無縫塔があり、これが池田恒興、之助父子のものとの伝承があります。この無縫塔2基は岐阜県指定重要文化財となっています。また 池田恒興の遺品として犬山城から貰い受けた「鞍、鐙、轡、槍(富加町指定重要文化財)」が龍福寺に保存されています。

池田恒興の遺品の馬具 伝池田恒興父子の墓(齢峰寺)
▲ 池田恒興の遺品の馬具 ▲ 伝池田恒興父子の墓(齢峰寺)

 

[所在地]
加茂郡富加町加治田



お問い合わせ
・ 富加町郷土資料館 TEL 0574-54-1443
・ 富加町教育委員会 文化財係 TEL 0574-54-2177


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