奈良正倉院に残る最古の戸籍      

奈良正倉院に残る最古の戸籍    


大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍
(たいほうにねんみのこくかもぐんはにゅうりこせき)
大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍

半布里戸籍 

[写真:国立歴史民俗博物館所蔵]
※著作権の関係上画像は保存できないようになっております。



 今から約1300年前の大宝二年(702年)に作られた戸籍で、奈良正倉院にひっそりと残されていた現存する最古の戸籍です。半布里(はにゅうり)とは現在の富加町にあたるとされており、町内に残る羽生(はにゅう)という地名が、その名残であると考えられています。半布里戸籍は、22紙分が6断簡に分かれて伝わっています。復元すると、はじめの集計と四戸分の記載が失われているほかは、一里一巻分のほぼ全体が現存しています。大宝二年の御野国戸籍は、半布里の他に山方郡三井田里(やまがたぐんみいだり)、肩県郡肩々里(かたがたぐんかたがたり)など六里分ほどが残っていますが、その書式は、次のような特徴があります。

 「五保(ごほ)」と呼ばれる五戸ごとのまとまりが示されています。この五戸ごとに、逃亡や納税に関して共同責任が課せられていたと考えられます。
 
 戸の等級として一つの戸に、上政戸・中政戸・下政戸の区分と、上上から下下までの九等戸という二種類の等級が付されています。政戸の別は、正丁の数による戸の分類法、九等戸は戸の資産状況による戸の分類法と考えられています。
 
 戸口の総数と内訳を戸の冒頭に記載し、戸口の名を一行に3名ずつ列挙しています。
 
 戸口の配列順序が血縁順でなく、良賎(りょうせん)の身分と男女の別(男性を先に記載する)によっています。

 こうした特徴は同時代の他国の戸籍(西海道戸籍など)や年次の違う戸籍(養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍)とは異なっており、大宝令以前の飛鳥清御原令(あすかきよみはらりょう)に基づく古い書式を伝えているのではないかと考えられています。


-半布里戸籍が辿った道-
 
 戸籍は、戸を単位とした課役・兵士の挑発・班田収授・氏姓の確定などのために、6年に1度作成されました。そして五十戸を一里とし、一里一巻でそれぞれ3通作成されました。半布里戸籍の巻末には美濃国の戸籍編纂の総責任者である国司四等官の署名と、郡の役人である主帳(しゅちょう)の署名があります。おそらく戸籍編纂の実務は主帳県主弟麻呂【※①】という人物を中心に実施されたと思われます。三通作成された戸籍のうち、一通を国府にとどめ、二通が都の太政官あてに送られ、それぞれ民部省と中務省に保管されました。『令義解(りょうのぎげ)【※②】』によれば中務省に送られたものは、天皇の「御覧に擬するため」ともされており、一説には正倉院戸籍は中務省に送られたものが払い下げられ、今に伝わったともいわれています。

 6年ごとに全国から都へ送られてくる戸籍の総数は約1万巻にも及び、これらは30年の保存期間が過ぎると廃棄され、諸官庁でその裏面が再利用されました。半布里戸籍も保存期間満了後は廃棄されるところでしたが、東大寺の写経所へ払い下げられ、裏面が二次利用されています。天平20年(748年)の千部法華経(せんぶほけきょう)書写関係の長大な帳簿にまとまった形で使用されたため、幸運にもほぼ全体が残ることとなったのです。 

富加町郷土資料館に複製が展示されています 
富加町郷土資料館に複製が展示されています

 半布里戸籍の裏面を利用した帳簿類が正倉院に納められた経緯は定かではありませんが、おそらく仮置きだったのではないでしょうか。偶然に偶然を重ねた結果、1300年の時を経て、奈良正倉院の中倉でひっそりと時を重ねていたのです。

【※①】 主帳県主弟麻呂・・・
この地域の伝統的な豪族「カモ県主」の流れをくむと考えられています。半布里戸籍の中にも県主族や県造を姓とする人が多く見られます。
【※②】 令義解・・・・・・・・・・・
天長10年(833年)に作られた官撰の注釈書です。


所在地
富加町郷土資料館 加茂郡富加町夕田212



お問い合わせ
・ 富加町郷土資料館 TEL 0574-54-1443
・ 富加町教育委員会 文化財係 TEL 0574-54-2177

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