昭和52年の富加町役場庁舎建設の際に発掘調査を行った結果、7・8世紀の村の跡が発見され、この年代が大宝二年(702年)御野国加毛郡半布里戸籍の年代と近いことから、その戸籍に記された里の一部ではないかとして注目されました。遺跡は、6世紀後半から竪穴住居が建ち始め、7世紀後葉から半布里戸籍の作られた8世紀前葉にかけて竪穴住居の数が増加するとされています。住居の数が最も多いのは8世紀後葉頃とされています。
富加町役場周辺では、現在までに発掘調査で竪穴住居などの建物が157棟確認されており、ほとんどの住居から須恵器(窯で焼いた素焼きの土器)、土師器(野焼きの赤い土器)が出土し、7~8世紀の人々が生活していた家の跡ということがわかっています。その他にも倉庫のような建物や溝、池など人々の暮らしぶりを示す、様々な遺構が発見されています。
遺跡の発掘調査で発見された竪穴住居跡
昭和52年当時の発掘風景
里刀自(りとじ)と墨で書かれた須恵器(8世紀後葉)
発掘調査の成果から古代の村の風景が少しずつわかり始めています。まだまだ検討中ですが、現在の役場敷地で多くの家(竪穴住居)が密集して発見されていますので、この辺りが中心だと考えられ、周辺に向かってはだんだんと発見される家の数が減る傾向にあります。
「半布里戸籍」によると1戸は戸主やその血縁者などの家族により数世帯で構成されており、平均人数はおよそ20人程となっています。発見された竪穴住居もおよそ4~5軒ほどがかたまって建っていると考えられており、1軒あたり5人ほどと考えると20人ほどが1グループになっているような印象を受けます。古代の戸籍が、実際のムラをどのように編成して記録し、それを表記していったのか、戸籍が現実とどう対応しているのかというのは非常に興味深い問題でありますが、もっとも難しい課題でもあります。まずは、発掘調査の資料や成果を積み重ねて当時の姿を適切に把握することが大切です。
発見された倉庫跡A
発見された倉庫跡B
遺跡から出土した土器
遺跡からは、家の跡だけでなく「倉庫」と考えられる建物も見つかっています。役場敷地より一段高い段丘面、字金塚と呼ばれている辺りで発見されました。総柱とは建物の内側にも柱列が並ぶ構造のことで、同じ規模・構造の建物が2棟発見されています。柱材はコウヤマキを使用しています。近くには用水の分水箇所があり、田へ引く水利の要衝でもある場所です。少し見上げるような段丘の上に、このような建物が何棟も建っている光景は、当時の人々にどのように映ったのでしょう。また、下の写真に示すとおり、遺跡からの出土品は、富加町郷土資料館に展示・収蔵されています。
※今回紹介しました遺跡の発掘調査報告書を刊行しています。
ご希望の方は富加町郷土資料館までお尋ねください。
所在地
加茂郡富加町夕田212
お問い合わせ
- 富加町郷土資料館 電話 0574-54-1443
- 富加町教育委員会 文化財係 電話 0574-54-2177